IAM~【私】を主語にして、相手を傷つけることなく自分の気持ちを伝える方法
ご来訪ありがとうございます。hacoです。
今回は、相手を傷つけず、さりげなく自分の気持ちを伝える方法として有効な【私】を主語にして話すことの大切さについて、書いてみたいと思います。
さて、いきなりですが、クエスチョンです。
朝の忙しい時間帯、お母さんは子どもを学校に送り出した後、すぐに出かけなければなりません。
なので、少しでも早くご飯を食べてもらって片づけに入りたいと思っています。
しかし、子どもはマイペースにテレビを見ながらご飯を食べているので、一向に食べ終わる気配がありません。でも、遅刻する時間ではありません。
そんな時、もしあなたがそのお母さんだったら、どうしますか?
ちなみに、この例題は、我が家での一幕です。
何々?
「黙ってご飯を取り上げて、とっとと家から追い出してしまう。」
わかります、わかります。すごくわかりますよ。
我が家でも、何度、考えた事か…。
はい、お次は?
「遅刻するから、早く学校に行きなさい!とせっつく。」
いろいろと波乱に飛び交う答えが出てきそうですね(笑)
でも、もしかすると、お子さんが学校へ行った後、安堵と同時に罪悪感もどこかにあったりしませんか?
私は以前、自分はこんなにも忙しくしているのに、子ども達はなんで何もわかってくれず、マイペースで動くのだろうと嘆いていました。
そして、そんな母の尋常ではない様子を知ってか知らずか、子ども達も渋々、朝食を早めに切り上げて学校へ向かいます。
その後、ようやく自分の時間が持てた時「さっき、少し言い過ぎたかな~」と我に返り、反省をしてみたり。
でも、次もまた同じことの繰り返しだったりします。
しかし、何で毎回毎回同じことが繰り返されるのだろうと、よくよく考えてみると、子ども達には、私の気持ちを正面から伝えていないことに気がつきました。
子ども達が早く学校へ行って欲しいアピールだけしかせず、バタバタしている自分の姿しか見せていなかったのです。「それで察してよ!」という淡い期待も込めながら。
大人同士の場合、
急いでいるので、バタバタしている。
↓
遅刻されると困るので、できるだけ協力する。(要は空気を読める)
という図式が成り立つ場合が多かったりするのですが、子どもの場合。
急いでいるので、バタバタしている。
↓
人は人。自分は自分。
以上。
そう、所詮他人事なんです。
なので、子どもが「大人の言うことを聞く」場合というのは、大抵が自分が怒られるのが嫌だから回避する術としている場合が多いのです。
ですが、それが大人と違って、子どもの面白いところでもあって、腹が立つところでもあります(笑)
そして、実際、子ども達は、ご飯をゆっくりと食べているけれど、学校に遅刻するほど、ギリギリではなく、むしろご飯をよく噛んでモリモリ食べているので、実はエラかったんですよね(笑)
でも、私自身に余裕がなかったので、そこまで子ども達を観察することができず、ただ自分自身のスケジュールに子ども達を合わせようとしてイライラしていただけなのでした。
自分自身がイライラしているだけと事実を知った途端、かなり落ち込みましたが。
それ以来、ちょっとした心がけですが「私はこう思っている」ということを伝えるようにしています。
「お母さんは用事があって、9時までに行かなくてはならないの。バタバタしていて、あなたたちには迷惑かけるけれど、わかってくれたら嬉しい。本当にごめんね。」という感じで。
何より一番、伝えたかったのは、ご飯をゆっくり食べている子ども達は全く悪くないということ。そして、私の都合で、家の中がバタバタしてしまっていること。
相手をリスペクトしている姿勢を見せた上で、自分の思いを伝えると、子どもなりとも協力してくれるので、やはり、伝えることって大切だなとつくづく思いました。
何事も、実は主観で物事が運ばれることが多く、価値観も人それぞれだったりします。
そして、そこで良いか悪いかということを自分自身で判断することは最も危ういことです。
ですが、その時の自分が感じていることや思っていることだけは、自分の中にあるものなので自由であることは確かです。
「私」がどう感じているのか、どう思っているのか。
感情は、子どもも大人も平等に持っています。
そこで【私】を主語に持ってくることによって、相手の問題ではなく【私】の問題であるのだと、はっきり区別させることができます。
そして、相手に自分の思いを伝えることができるのと同時に、相手が行動を改めてくれるきっかけにもなります。
日本語は、主語を省略することが多いので、改めて「私は」や「私が」などを使うことに違和感を感じるかもしれませんが、自分がどんな感情を抱いているかを相手に知ってもらうことは、とても意義のあることで、伝えなかった時よりも、相手が自分のことに意識を向けてもらえる可能性が一段と高くなるのです。
いかがでしょうか?
相手に動いてもらいたい場合、強制するような言い方をしなくても【私】を主語にした言い方ひとつで、相手は「自分のせい」だと落ち込むことなく【私】の思いを素直に受け取ってくれる確率が高くなるような気がしませんか?
中学の英語の授業で必ず習う「IAM~」。
試験で忘れると減点されてしまうくらい「主語」って実はとても大切な言葉なんですよね。
自らの力で気づき、解決するワーク【アートセラピー】
ご来訪ありがとうございます、hacoです。
アートセラピーには、絵を描いたり、粘土や様々な立体素材で表現したり、コラージュ制作(写真やイラストなどバラバラの素材を組み合わせる作業)など、多様なアプローチの仕方があるのですが、今回は、私が目指しているアートセラピーの中の「セラピー」についてお伝えしたいと思います。
閉塞感が否めない現代において、癒しを求める人がますます増えてきています。そして、今後も更に増えて続けて行くと私は思っています。
そして、ひと昔前まで「セラピー」と言う言葉は(横文字なのが特に)なんだか宗教じみていたり、洗脳されるというネガティブなイメージが付きまとっている時期がありました。
しかし、今では、癒しの代名詞として「セラピー」はどこでも耳や目にする機会が増え、だいぶ浸透してくるようになりました。
私がすぐに思いつくのは、アロマテラピーなどで施術をするボディワーク系のセラピー。
あとはフラワーセラピーやドッグセラピーというものもあり、癒しの対象となるものは、人それぞれなので、受ける方は必要に応じて選ぶことができます。
そして「セラピー」のイメージは、どうしても施術側から受ける側に一方的に癒しを施すのが当たり前という関係が成り立っています。
もちろん、癒されるためにお金を払うのですから、癒してもらうのは当然のことだと思います。そこは否めません。
ですが、私はその関係、つまり、優位→劣位のような関係性が生じてしまうことにとても懸念を抱いています。
本来癒す力というのは、セラピストが持っている錬金術のようなモノがあるのではなく、される側が元々持っている自己治癒力に鍵があると思うからです。
ですので、セラピストが出来ることというのは、自己治癒力を呼び覚まし、そして最大限に引き出し、調整するお手伝いが限界だと思っています。
あとの回復は、本人次第と言うことです。
話しは全く反れてしまいますが、実は、この前、母が膝関節症の手術をしました。しばらくは、杖を持った生活になるそうです。
リハビリ次第では、数年後になるかもしれないとまで言われました。
しかし、リハビリを頑張れば、数ヶ月で杖をとる事も可能だそうです。
もう、高齢に差し掛かっているので、本人の頑張りと言うよりは、体力と気力が要になると思うのですが、その時、私が思ったのは『本人次第で、数ヶ月後にもなれば、数年後にもなるという、とても非科学的で且つ曖昧、しかし、自分自身で体をコントロールすることができる』という前向きな希望的観測でした。
誰にだって、その先はわからない。
医者だってわからない。
でも、わかららないからこそ、やってみる価値がある。
母は、まだ杖を使う生活をしていますが、杖を使わないで歩いているイメージトレーニングを毎日欠かさずしているそうです。
それは、できるだけ人の力を借りたくないという母の小さなプライドから来ているような気がします。でも、それが実際、母の原動力になっていることは確かです。
このままで行くと、もしかしたら、思ったよりも回復が早いかもしれません。しかし、最悪のことだってあるかもしれません。
でも、年をとっても、諦めずに前向きな気持ちを持つことが出来ている母はそれだけでスゴイと思いました。
「患者なのだから」という意識を全くもっていない母は、誰よりも自己免疫力が高く、母自身がセラピストだと思わざるを得ません。
そこで、話がアートセラピーに戻るのですが(ようやく)、アートセラピストも同様に、アート制作を通して、本人の力で問題解決や気づきを得るためにサポートするのが本来の役目になります。
アートセラピーは「治療を受ける」「癒される」という受身の療法ではなく、クライアントさん本人が癒しの主体であり、本来の自分を知り、そして自ら人生に問い掛けるツールであると私は思っています。
そして、アートセラピーでは、
クライアントさん自身が、
自らの内なる小宇宙の創造主
であると考えられています。
これからもまた少しずつ、アートセラピーについて書いて行きたいと思っています。
アートセラピーに興味を持たれた方へ
クレヨンや色鉛筆を使って、楽しくお絵かきをしながら、自らを見つめ、自らで気づくワークです。得意不得意、上手い下手は一切関係ありません(やるとわかります)。こちらからのジャッジもないので、心の赴くままに童心に戻った気分で描くことができますので、是非モニターさんとして参加してみませんか?
●女性限定の対面セッション(1対1)
●神奈川県近郊の駅近のカフェにて(お飲み物は各自で注文)
●モニターさん価格1000円(60分)
※時間は目安です。
※今後の参考にさせていただきたいと思っていますので、簡単なアンケートにご協力いただけますと嬉しいです。
日にちや時間は、お互いの都合の良い日を相談しながら決めさせていただきたいと思います。
お問い合わせフォームから直接ご連絡ください。
haco
【ライフヒストリー】は過去の自分と対話ができるツール。
いつも、ご来訪ありがとうございます。
「ライフヒストリー」という言葉を聞いたことはありますか?
ライフヒストリーとは、
個人の一生の歴史。社会学や文化人類学では、文化や社会を理解する資料として、聞き書きなどの方法により収集される。生活史。
大辞林 第三版より
「自分史」と言うと、イメージが湧くかもしれません。
今の自分自身にフォーカスすると、全ては、過去での経験や選択そして記憶から成り立っていることに気が付きます。
逆に言えば、過去の自分が、今の自分を作っているとも言えるのではないでしょうか。
しかし、実際に過去を辿ったとしても、実は曖昧で決定的な証拠というものはありませんので、自分自身の記憶の解釈だけが頼りとなってきます。
ですが、自分自身を振り返るきっかけがあれば、記憶の整理をすることは可能です。
そして、過去の自分自身との対話をする機会もあるので、今まで気が付くことのなかった自分や忘れていた自分をもう一度呼び起こすことができ、今の自分との繋がりを再認識することができます。
過去の自分を知り、そして再確認することによって、現在をより有意義に過ごすことも可能だということです。
そこで、ライフヒストリーの存在意義が問われます。
私は実家に帰ると、母の生い立ちを自ら聞きだすことがあります。
母が、どういう思いで幼少時代を過ごしてきたか。
母が、願っていたことは、何か。
お友だちや周りの環境。
母と家族との関係など。
ストレートな質問というよりも、何となく「お母さんが子どもの頃の話で覚えていることを教えて」というような入り方で、その後は、本人が覚えていることや言いたいことを基本的には口を挟まず、ただ聞いているという感じです。
ですが、時々、聞き捨てならない、貴重な歴史(個人的な)や時代背景などが聞けるので、目をまん丸にしながら掘り下げて質問する時もあります。
まさに「生き歴史」とでもいうべき、教科書には絶対載らないような民俗的な話もサラリと話してくれるので、何度ボイスレコーダーを持って行こうかと思ったことか…。
次回は、持って行こうと思います。
そして、そのような話をしている時の母の姿は、まるで私の幼少期の頃の母のように若々しく、そして凛とした面持ちで話すので、眩しく見え、私は嬉しくなります。
少なくとも、現在の話をするよりも、昔の話をする方が、イキイキとしていて、つい昨日の出来事のように記憶を引っ張り出しては、饒舌に話をしてくれます。
時々嫌な顔(何かを思い出して)もしますが、遠い目をしながら、物思いにふけるような仕草もみられます。
その姿は完全に過去にタイムスリップしているようです。
いつか、というか母が健在のうちに、もっとたくさんの話を聞いて、母だけのライフヒストリーを作ってみたいと思っています。
今、ご高齢の方には、戦争の体験もされている方もまだ多くいるので、語り部さんのように、貴重な話をたくさん持っているはずです。
そして、それを知らない後世の世代へ伝承することによって、聞く側にも大きな何かを得ることができるので、相互においてもプラスになります。
その架け橋として、ライフヒストリーはとても意義のあるものだと思っています。
また、ライフヒストリーは、ご高齢の方だけが対象ではなく、人生を歩んでいる全ての人が作ることができます。
もし、自分自身をふり返りたい時、もしくは自分自身とは?と立ち止まった時、是非ライフヒストリーを作ってみてはいかがでしょうか。
自分の歴史年表のような形式でもいいと思いますし、時代背景と照らし合わせながら、当時の記憶を思い出したところから書いてもいいと思います。
書き残すことに意味があると私は思います。
私は、記憶が曖昧のままでいる幼少期を母から聞きながら、自分自身のライフヒストリーも作ってみようと思っています。
先日書いた、活版印刷機の記事は、母にとっても、私にとってもライフヒストリーの一部になっています。
親子でのライフヒストリーを作成する場合、子どもにとっては自分自身のルーツを知る足ががりにもなると思います。
祖父の記憶~アナログ回帰~活版印刷機
活版印刷とは?文字の部分を凸型に高くした活字に、インキを塗り、紙を押し付けて印刷することを活版印刷といいます。凸型の版には、活字のほかに、樹脂版や金属版などもあり、文字や絵をくっきり美しく印刷します。※大人の科学マガジンHPより
父の会社の名刺(シンプル過ぎる)が活版印刷でした。
今でも、名刺と言えば、活版印刷だと時代錯誤している私ですが、名刺ほど、活版印刷の魅力を最大限に感じるツールはないと思っています。
そして、活版印刷と言えば、私の祖父が活版印刷もやる印刷屋さんでした。
祖父の家から電車で二駅ほどの場所に、経営する印刷屋はありました。
なので、祖父の家に忘れ物があると、電車で二駅乗って、届けたものでした。家族は、同じ敷地にあればどんなに助かるだろうと思っていましたが、祖父は仕事とプライベートをきちんと分けていたい人で、ちょっと頑固な人でもありました。幸い今だったら誰もが納得してくれる時代なのに…と、ちょっとだけ早めに生まれて来てしまったような人でもありました。
そんな祖父は、職場に付くと、完全に仕事モードに切り替わるので、活版印刷機を始め、数々の印刷機を魔術のごとく使い分けます。
活版印刷の他に、ガリ版印刷もすれば、オフセット印刷もこなしていました。まさに印刷のプロフェショナルな人で、人生を印刷にかけていたような人でした。
部屋は作業をしていない日でも、インクのにおいが充満しており、壁面は、活版印刷で使用するたくさんの活字が大きな木の棚にズラリと並べてありました。
そして、数ある小さい活字たちの中から、必要な活字を選び、一つずつ文字を組んでいく、今では考えられないくらい、手間のかかるアナログ作業です。
しかし、祖母と叔父のサポートもあってか、請け負った仕事は必ず納期前までには仕上げていたので、信用はとても厚かったようです。
母も、子どもの頃からよく手伝っていたそうですが、母は印刷には全く興味がなく、むしろ嫌いで、とにかく早く仕事を終わらせて、家に帰りたかったそうです。
しかし、家計を支える為には、そんなこと言っている場合ではなかったみたいです。
でも、仕事熱心な祖父と家族の頑張りがあったおかげで、細々ではあったけど、お客様に愛されながら、長い間、続けることができたのだと、母は回想しながら当時のことを教えてくれました。
実際、お客さんの中には、当時NHKの連ドラで活躍されていた女優さんもいて、年賀状の発注が半端なかったそうです。
私は、いつも祖父の印刷屋に遊びにいくと、大量にある印刷用紙の中から、ピンクや黄緑など、色のついている用紙をもらっては、落書きや漫画を書くのが日課でした。色がついている紙が自分の中では特別感があり、描いた絵がなぜだか上手に見える気がしたからかもしれません。
私の子どもの頃は、印刷屋とともにありました。
今は、祖父も祖母も亡くなり、印刷屋さんももちろんありません。
しかし、祖父のDNAを受け継いだのかどうかはわかりませんが、気が付くと、同じように印刷や出版に携わる仕事をしてきました。
紙が大好きで、紙を使った仕事に無意識に惹かれている自分がいつもいました。
転職は何度かしましたが、いつも根本的にあるのは
「紙を使って何かを伝えたい!何か楽しいことを見つけたい!」
という願望だったので、結局は同じような業界を渡り歩いていた感じです。
幸い、結婚出産で退職するまでの間、ずっとそのような業界に携わることができたので、本当に楽しい半生だったなと思っています。
今では、育児も少しばかり落ち着いたので、また少しずつ何かをしていきたいと考えています。その延長線上にアートセラピーもあります。
デジタルネイティブな現在にも拘わらず、アナログ中のアナログである活版印刷が今また見直されているということで、今は、アナログが恋しくなっている時期なんだろうなと、うかがい知ることができます。
私は、活版印刷には、昔のタイプライターのように、ダイレクトに印字される凹型の感触にノスタルジーを感じています。近代のプリンターでは、出したくても出せない贅沢な味がそこにはあります。
仕事上、パソコンで全て製版(組版)をこなしてきた経験があり、これ以上ない利便性を感じていましたが、活版印刷には、時代が何周しても追いつけない独特な聖域があり、そこがまた魅力なのかもしれませんね。
こちらの本は、活版印刷について、とても詳しく書かれています。
ページもオシャレに構成されていて、出てくる作品も可愛くて素敵なものばかりです。
実際に印刷されたポストカードが付録についているので、イメージも湧きますし、きっと何かを作ってみたくなりますよ。
アートセラピーを始めました。
ご来訪ありがとうございます、hacoです。
前回、心理学を通して、アートセラピーにたどり着いた経緯を少し書きました。
アートセラピーとは、簡単に説明しますと、
絵を描いたり、コラージュ制作をしたり、粘土やさまざまな造形を素材を用いて、自己表現を行い、それらの作品を通して、自分の思いや感情を表現し、自分自身の気づきや洞察を得て、理解し、心のケアを行う芸術療法のことです。
アートセラピーは、視覚言語を媒体に用いるため、自分の気持ちをうまく表現することができない子どもや老人などをはじめ、さまざまな人でも感情表現とコミュニケーションの手段として、活用することができます。
特に、悲しみや怒り、または苦しみなどは言葉で表現することに躊躇をしたり、また他者に誤解や不快を与えてしまうので、自分の中だけで飲み込んでしまう場合もあります。
しかし、アート制作を通し、感情や思考をいったん作品という形で外在化させることにより、距離を置いて、自分の気持ちや考えを見つめることができます。
こちらの本は、アートセラピーの事例がたくさん掲載されていて、とても参考になります。
そして、アートセラピーの特徴は「治療を受ける」「癒してもらう」という受け身ではなく、本人自身が癒しの主体であるということです。それは、芸術療法全般にも言えることかもしれません。
芸術療法の中には、音楽療法というものもあります。
随分と前ですが、「ライアー」という竪琴(ハープ)が、ドイツで治療目的に使用されている話を聞きました。処方箋も発行されるそうです。実際に音も体感したのですが、その音は爪弾いている本人かすぐ近くの人にしか伝わらないくらいの小さな音なのです。しかし、本来の目的は、人に聴かせることではなく、弦を爪弾く行為そのものなのです。木のぬくもり(フレーム)や指の感覚、振動そして余韻、全てが爪弾く人の心の為だけにフォーカスされているのです。ですので、聴いている他者のことは一切気にすることはなく、自分自身でハープの調べを感じながら、自ら癒されていくことが最も重要なのだそうです。
アートセラピーと共通しているところがありますよね。
他者からの評価やジャッジを一切気にすることなく、自分自身で癒されることって、実は、本当に小さな赤ちゃんの時以外、なかなかないのかもしれません。
私は時々、描画アートセラピー(絵を描く)をうちの子ども達にするのですが、小学一年生の子どもですら、最初の一歩に躊躇する時があります。でも、模範解答があったり、上手い下手のジャッジもないので、本当は、小学一年生なら落書き感覚で楽しく描いても良さそうな気もするのですが、すでに頭の中でいろいろなことを考えているのでしょうね。
なので、うちの子の場合、まずはそこの苦手意識(ブロック)の解放から始めます。絵を描く前に私自身が落書きをすると、子どもも同じようにまねをするので、そこから徐々にワークに入ります。でも、落書きにかなり時間を費やす場合もあり、もちろんそれだけで終わったりする時もあります。
落書きって無意識なので、実は大人でも楽しんですよね。いたずら書きなんて、子どもの醍醐味みたいなものではないでしょうか(笑)
実は私自身、絵心は全くありません。そして特に美大に行っていたわけでもありません。
ですが、絵を描く(行為)は大好きです。
私が絵を苦手にならなかった理由は、今でもはっきり覚えています。
それは、5歳の時。
新築の家を建てたばかりで(狭小住宅ですが)子どもたちに傷をつけられないようにと、普通なら神経質になってもおかしくないのに、母親は、新築特有の独特な匂いがまだ漂っている入居当初に、汚れひとつない真っ白い壁を指差しながら、
「淋しいから何か絵を描いてみたら?」
と言いました。
もともと、いたずら書きには躊躇しない私でしたが、その言葉には耳を疑うと共に、子どもながらに引いた記憶があります。
しかし、初動で太陽をオレンジのクレヨンで申し訳なさそうに描いていたら、母から、
「まだ余白がいっぱい残っているよ」
と、言われたことをきっかけに、堰を切ったように、ありったけのクレヨンで壁に落書きをしました。
その時の爽快感と言ったら…言葉では言い表せませんが、今でもその気持ちはずっと覚えています。
そして、母は私の絵を見て、
「子どもの絵っていいね」と
ひとこと、言いました。
私は小学校に上がっても、時々、その壁に落書きをしていました。時には水彩絵の具を使ったり、あるいはマジックで言葉を書いてみたり。
いつしか私のストレス発散の場となり、アートというよりもむしろ私の落書き帳のような存在だったので、真っ白だったキャンバスの壁は、みごとに黒板へと変貌を遂げてしまいました。
ただ、その間、何も変わることがなかったのが、同じ部屋にある母が内職で使うミシンでした。一日の半分は、常にカタカタと音が鳴り響いていたのを覚えています。何十年と続く自宅のローンのために。
私は、母がミシンを使っている時間、無意識にその部屋に入り浸っては、壁に落書きをしていました。
そして母は、一息つくたび、壁を眺めては微笑んでいました。
しかし、中学生で思春期迎えた頃、私はその絵を見る度に恥ずかしくなってしまい、お小遣いでアイボリー色のペンキを購入し、家族がいない間に、落書きが見えなくなるくらい、壁一面を塗りつぶしてしまいました。
母は、おそらくそれを見て残念な思いをしたと思います。でも、怒ることはしませんでした。
母は、ずっと私の成長を坦々と見守ってくれていました。
今は、その家からは引っ越してしまい、その壁すら見ることはできません。
しかし、時々、思うことがあります。
何事も自分自身で気が付かない限り、前には進めないということ。
しかし、きっかけさえあれば、いつでも前に進むことができるということ。
よく、「アート」は自分自身を投影するものだと言います。
なので、私の中では、上手い下手の基準よりも、自分が楽しいか楽しくないかという方がとても重要で、これはアートに限らず、全ての原動力において言えることだと思っています。
当時、一番、身近だった母が、私の絵に対して、上手い下手のジャッジをすることなく、楽しく描いている行為そのものを肯定してくれていたと勝手に思っているので、実際、一向に絵は上手にはなりませんし、今でも小学生が描くような女の子(お姫様みたいな)の絵で止まったままです。癖がずっとあの頃のまま(笑)
ですが、絵を描く楽しみは人一倍感じているつもりです。
そして、自己表現の爽快感も。
「好き」を「楽しさ」をそのまま肯定してくれた母には感謝しています。
子どもの頃に感じたワクワクやキラキラは誰にでも平等にあって、そして永遠だと私は思うのです。
これからも、アートセラピーの良さをお伝えして行けたらと思っています。
アートセラピーに興味を持たれた方へ
クレヨンや色鉛筆を使って、楽しくお絵かきをしながら自らを見つめ、自らで気づくワークです。得意不得意、上手い下手は一切関係ありません(やるとわかります)。こちらからのジャッジもないので、心の赴くままに童心に戻った気分で描くことができますので、是非モニターさんとして参加してみませんか?
●女性限定の対面セッション(1対1)
●神奈川県近郊の駅近のカフェにて(お飲み物は各自で注文)
●モニターさん価格1000円(60分)
※時間は目安です。
※今後の参考にさせていただきたいと思っていますので、簡単なアンケートにご協力いただけますと嬉しいです。
日にちや時間は、お互いの都合の良い日を相談しながら決めさせていただきたいと思います。
お問い合わせフォームから直接ご連絡ください。
haco
全ての行動には理由(意味)がある。
ご来訪ありがとうございます、hacoです。
約3ヶ月ぶりの更新となってしまいました。
更新していなかったこの3か月間、私自身、微妙に変化もあったので、プロフィールも多少、様変わりしています。
元々、好奇心が旺盛で、気になることや興味のあることには臆することなく、突き進むタイプなのですが、昨年の後半くらいから、外よりも自分自身の内観に気持ちを向けることが多くなっていました。
でもそれは、今に始まったことではなく、何年かに一度訪れます。
基本的に、自分自身と向き合うことは苦ではないので、今はそんな時期なのかなと俯瞰して自分自身を見ていますが。
そして、内観に集中していた時、心理学に興味を持つようになりました。
と言っても、他人を操りたいとかメンタリストになりたいとかそんなことでは一切なく、自分自身の原点(本質)を改めて探ってみたいと思ったのがきっかけです。
同時に、成長と共に心や体の変化が激しくなってきている子ども達の見えない心の声をもし上手に汲み取ることができたなら、それに対しての対処法も考えられるだろうし、何よりもお互いにとってもう少しプラスの方向へ進むことができるのではないかという切実な思いも強かったです。
ふり返ると、私が心理学に興味を持ったルーツは、おそらく小学生の頃にはまった「浅野八郎先生の心理テストシリーズ」だと記憶しています。
心理テストとは、質問とあらかじめ用意されたいくつかの解答の中から自分の答えに近いものを選ぶと、隠された自分の本質がわかってしまうという、少しおっかなびっくりなテストのことです。受け入れる受け入れないは別として。
心理学という言葉は、小学生時代は全く知りませんでしたが、「心理テスト」については、浅野先生をきっかけにとても身近に感じることができました。
当時(30年以上前)本来ならば、難しい「心理学」のコーナーに並ばれていても不思議ではない先生の著書が、私の家の近くの書店では、ティーンズが読む占い本やおまじない本などのコーナーに当然のごとく陳列されており、しかも表紙だけで女子が手に取りたくなるような乙女心をくすぐる工夫(キャッチコピーが上手い)まで施してあったので、本当に商売上手だな~と幼いながら感じていました。
そして、今も昔も、ほとんどの女子が通ってきたであろう「占い」、そして「心理テスト」はその延長線上にありながらも「心理学」とは別物扱い。ゆえ間口が広かったため、誰もが気軽に他人に行うことのできるメンタル版コミュニケーションツールとして、休み時間や修学学校など、女子が集まった時には、常に大活躍していました。なので浅野先生の功績は本当に誉高いのです。ティーンズにとっても。
当時、面白いなぁと思ったのが、さほど仲が良くなかった友だち同士でも、心理テストをすると、自己開示をしあうのでお互いの距離感が一気に縮まり、その後とても仲良くなったりするのです。
今まで知ることのなかった相手の一面を垣間見れた嬉しさと、自分自身の一部を知ってもらえたという喜び、そして女子が最も重要視するとも言える「共感力」も手伝い、一気に信頼関係が生まれるからかもしれません。
答えといえども、本人にしかわからない「当たり」「ハズレ」はありますが、クイズのような明確な正解ではないので、そこはやはり「心理」なテスト。それにしても、フローチャート式のテストは見事な導線が引かれているので、答えはいつも心から納得していたような気がします。
現在は、人生の折り返し地点にそろそろ迫ってきているので、だいぶ自分自身をあの頃よりは知ることができたかなとは思っていますが、わかっていない自分自身もまだあると思うので、知りたい欲求は相変わらずです。
小学生時代に知った「心理テスト」をきっかけに、今では「心理学」に興味を持つようになりましたが、スピリチュアル系のような曖昧さとはまた違って(それはそれで別の意義があると思いますが)、人間の行動には全て理由(意味)があるという「心理学論」は、普段の自分自身の癖や子育てに対して、即戦力としてすぐに活用することができるので、とても便利ですし面白いと思いました。
これを知るのと知らないのとでは、生き方が全く変わるような気がします。私の場合は、もっと早くから勉強したかったというのが正直な気持ちです。
実は、アートセラピストの資格を取得しました。
アートセラピーとは、絵や造形などの芸術表現を通して、様々な気づきや洞察を得る芸術療法です。
いわば、心理療法の一種です。
同じ絵を一つ描いたとしても、現在抱えている問題や心の変化によっては、一か月後には全く違う絵になっていたりするので、描いた人の心理がそのまま表れたりします。
数多くある心理療法の中で、私がなぜ最初にアートセラピーを選んだかというと、何かで「子どもの描く絵にはその時の心理状態を表していて、とてもわかりやすい」という表現に出会い、ずっと心のどこかで気になっていたからです。
実際、幼稚園でみんなで絵を描く時間があり、うちの子どもは描くこと自体を拒んでいた時がありました。それも今思えば、子どもなりの主張があり、描きたくない何かがあったのかなと思うことができます。本人に理由を詳しく聞くことは、当時も今もしていませんが、もしかすると、心自体を閉ざしていた時期だったのかもしれません。でも、そうではないかもしれません。ただ確かなことは、本人の意志でそうしていたということ。
しかし、そうかと思えば、家の中ではお絵かきが大好きで、様々な色のクレヨンや色鉛筆を駆使して、自由にのびのびと描きまくります。なので、絵を描くこと自体は好きなのです。幼稚園との違いに最初は?の連続でしたが、今ではそのギャップも受け入れることが出来ました。
アートセラピーは心理を探るツールに過ぎません。しかし、逆にこんなにわかりやすい心理学も珍しいかもしれません。私のような視覚重視のタイプの方にはすんなりと受け入れられるのではないでしょうか?
実際、私自身が初めて体験した時の感想をお伝えしますと、
- 自分の描いた絵をジャッジされることがないので、心から楽しく描くことができた。
- 無意識で描いたと思っていた絵や色に、実は自分の深層心理が顕著に表れていた。
- それを自分自身で気が付くことができた。
- 過去に経験してきた問題が、実は今でもぶち当たっていることに気が付いた。(今はそれを冷静に自分を見ることができた)
他にも、たくさんの気付きを得ることができました。
そして、資格取得後、今度は子どもたちや友人たちにも体験してもらいました。
その中でみんなの共通した感想は、
「クレヨンや色鉛筆を使って楽しかった~♪」
という率直な言葉でした。
確かに、大人になるほど、わざわざクレヨンや色鉛筆を使う機会などなかなかないですものね。
しかも、学校の美術のように「絵が上手い・下手」などで評価されることは一切なく、自分の心の思うがままに描くので、童心に戻った気持ちになれます。ちなみに私は絵心全くありません。でも、描くのは大好きです。それは、子どもの頃も大人になっても変わりません。
「心理学」というと、敷居が高そうですが、アート(絵)を通して、自分自身を知ることができるので、私自身も楽しんでやっています。
もし、体験してみたいと思われる方がいらしゃいましたら、モニターとして是非体験してみませんか?
クレヨンや色鉛筆を使って、楽しくお絵かきをしながら、自らを見つめるワークです。得意不得意、上手い下手は一切関係ありません(やるとわかります)。こちらからのジャッジもないので、心の赴くままに童心に戻った気分で描くことができます。
●女性限定の対面セッション(1対1)
●神奈川県近郊の駅近のカフェにて(お飲み物は各自で注文)
●モニターさん価格1000円(60分)
※今後の参考にさせていただきたいと思っていますので、簡単なアンケートにご協力いただけますと嬉しいです。
日にちや時間は、お互いの都合の良い日を相談しながら決めさせていただきたいと思います。
お問い合わせフォームから直接ご連絡ください。
haco
就寝前の儀式となつつある【非電源ゲーム】は、息子の自己肯定アイテムになった。
いつも、ご来訪ありがとうございます。
相変わらず、月曜日の朝になると登校を渋っている息子の母です。
金曜日、小学校から帰宅してから日曜日の夜において、月曜日の登校時を思い浮かべては一人メソメソしている息子。楽しい週末の過ごし方を見事に無駄にしている息子。そして、楽しい週末が終わってしまうのが嫌だと吐露する理不尽な息子。
しかし、登校を渋るのは、今に始まったことではなく、幼稚園の頃からすでにありました(下記)。
週末のお休みというのは、息子だけではなく、娘、夫、そして私自身にとっても、有意義に使いたい日であり、息子のモチベーションに付き合わされたまま終わらせるわけには行かないので、その辺はあまり流されず、家族で行きたいところややりたいことをして過ごしています。
しかし、楽しい週末の終焉、日曜日の夕食が終わる頃でしょうか、月曜日の朝が迫ってきそうな雰囲気を察しているのか、お顔はすでにダークサイドに苛まれております。
せめて、その顔だけはやめて欲しいのと、このままだと娘にも悪影響を及ぼしかねないと思ったので、最近の苦肉の策として、
日曜日だけ息子にゲームに勝ってもらう(勝たせる)
ということをしています。
簡単に言うと、
自己肯定感を維持させたまま、月曜日の朝まで持続させる
という、とても短絡的な策です(笑)
我が家は、就寝の儀式として、毎晩ゲーム大会(非電源的)をしています。
テレビゲームや3DSだと、逆に目と脳が冴えてしまい就寝に影響があるので、寝る前は絵本の読み聞かせのような、終わったらそのまますぐにお布団へとシフトできるアナログなゲームで遊んでいます。
時間は30分くらいですが、家族と遊んだという満足感がこの30分間の中で集約されているので、子ども達は毎晩とても満足して眠りについています。
しかし、息子が勝てなかった日は、なかなか眠りにつけないこともあり、次の日にも影響が出るのではとヒヤヒヤとすることも多いのですが、それでもゲームは楽しいと言います。
最近はまっているのはドイツのラヴェンスバーガー社のこちらのゲーム。
作りがしっかりしているので、多少荒い扱いでも長持ちしているので、重宝しています。
迷路タイルを動かしながら、自分の有利な方へ道順を作って、手札にある宝物をゲットしていくというゲームです。
しかし、人数が多いほど、道を遮断されてしまう確率も高くなるので、難易度は上がります。そこが、大人は面白いのですがね。
わかりやすいので、小1の息子もおおはまり。
運もあるけど、読みも必要。
なので、運に限界がある息子は、姉のお助けプレイのおかげで勝たせてもらうこともしばしば。
無理やり勝たせるということは、息子の自尊心を傷つけることにもなるのではないかとと危惧されるかもしれませんが、息子の場合、負けた方が何百倍も傷ついているようです。
しかも、娘(姉)の方が6歳も年上なので、何をしてもかなうことはなく、むしろ勝ち知らずに育ってしまったかもしれません。
なので、今までゲームをしても、実力で勝てるのは運で決まるゲームのみ。でも、要領がわかってくれば勝てるゲームもあります。
それ以外は、どうしても姉に勝つことができない悔しさもあってか、ゲームを途中で中断してしまうこともありました(試合放棄)。
しかし、ゲームに一度でも勝つと、自信に満ち溢れ、他者に対して優しくなれるというとても単純な心も持ち合わせているので、卑怯であろうが何だろうが、自己肯定感を満たす方を優先することにしました。
娘には理由を話し、日曜日だけという約束で手加減してもらうことにしてもらいながら…。
案の定、ゲームに勝って眠ると、速攻安眠モード。
朝の目覚めも違うようです。
というわけで、今日はとりあえずスッキリした目で学校に行くことが出来ました。